人それぞれ。

果たしてそれは「思いやりのある」言葉なのか。

本当に相手に寄り添った言葉なのか。

可哀想、とは本当にあたたかい言葉なのか。

 

私は「可哀想」という言葉が嫌いだ。

「連帯責任」に勝るとも劣らないくらい嫌いだ。

だから私は絶対に、絶対に、

この「可哀想」という言葉を使わない。

そして「可哀想」と言われたくも、ない。

しかし、父がよくこの言葉を使うのだ。

そしてよく言い争うことになるのである…

 

父曰く、「可哀想には同情が、相手に寄り添う気持ちがこもっている。」と。

まあ、確かにそうだね。

同情は含まれているね。

でも。

私は思う。

「可哀想」はむしろ、人を否定する言葉だと。

 

「可哀想」と言われると、

なんだか「私」というものを踏みにじられているような気がする。

「あぁ、可哀想に…」

という言葉の後に

「自分があんな目に遭わなくてよかったあー」

という声が聞こえる。というより、見える。

まあ、そんなこと思ってないかもしれない。

純粋に同情してくれてるのかもしれない。

でも少し、

見下されたようなニュアンスが染みていると

私は思うのだ。

 

こんなこともあった。

父と車に乗っていた時のことだ。

ランドセルを背負ったちっちゃい子たちがいた。

班長さんについて行こうと

ぴょこぴょこぱたぱた歩いている姿が可愛い。

すると父がいうのだ。

「あんな重いもの背負って…かわいそうに…」

もちろん悪気があっての言葉ではない。

それはわかる。

しかし、ねぇ。

可哀想じゃなくて、偉いねでよくないかな?

と、私がキレたのは言うまでもない。

 

「可哀想」のひとことで、

あの子たちの頑張りを無下にしているような、

そんな気がするのだ。

他にも適当な言葉があるはずなのに。

そんな陳腐な言葉で済ませていいはずないのに。

 

「可哀想」

これは相手に対する同情を示す言葉だ。

でも。

必ずそう捉えられるかはわからない。

感じ方は人それぞれだ。

だから、相手の感性を受け止めて、

認めて、自分のに取り入れるくらいの

心の広さがないとダメなんだろうなあと思う。

今回は「可哀想」に対して思うところを書いたが、ほかの言葉だってそうだ。

人は他人の考えを読むことができない。

だから、思い違いが生じる。

つまり、相手の気持ちになって言葉を選ぶことが大事なんだね…とちょっと良い感じにまとめてみて今日はおしまい。

 

駄文にお付き合いいただき、

ありがとうございました。