これは下唇吸いながら遠い目で窓の外を眺めたくなる本です。

 

この本を燃やしなさい。読み終えたら。

-オノ・ヨーコ グレープフルーツジュースより-

 

 

敬愛するcyndi lauper さんが17歳で家出した時、

この本を持って行ったらしい。

この本自体はすぐに読める。

読むだけならば5分足らずで読める。

しかし。

本当に理解しようと思うのならば

生涯を費やしても足りないかも分からない。

 

この本は多分詩集だ。多分。

多分、というのは

ほんとうに何もわからないのだ。

英語から訳されているから、

細かなニュアンスが伝わりづらいのかも

知らない。けれど!

ニュアンスが分かったところで理解できるのか…

 

この本の彼女の言うことには、

ダンスパーティーを開いて

みんなを椅子と踊らせて、

夜明けまでどこかの集団のいびきを聞いて、

2000コもの風船の皮を剥いで

空に飛ばすべきらしい。

非常に理解しがたい。

 

オノ・ヨーコ氏は芸術家だ。

簡単にその考えを理解できるものでもないし、

全部理解出来ることがいいことでもない。

と、自分の理解力の無さを

自分でなぐさめているけれど

やっぱり理解したい。

何を感じてヨーコ氏がこれを記したのか。

 

私はまだこの本を理解できない。

でも、それでいい。

まだ分かるべき時ではないらしい。

理解できないからといって読む資格がない、

ということでもない。

分かるべき時が来たら…いいな。

 

頭を抱えて言葉の意味を考えたい人、

「イマジン」の起源を感じたい人、

読書感想文の題材に悩んでいる人など

文字通り全ての人におすすめです。

 

 

 

 

 

 

 

隆子。不意に回されることもある。

ある記事で

藤井隆さんサイコー!今度藤井隆さんについて書く!」

と言ったので書いちゃう。

 

monologia.hatenablog.com

↑ これ。

 

わたしの青い空」は藤井隆さんと

キリンジんがコラボ(?)して

作られてる曲で、そりゃもうすんごい。

シュールで無機質的な世界観。

美しい歌詞。

頭を離れない音楽、そして隆。

いいなあ、わたしもその世界にいたい。

 

楽曲もすごいけどね!

ダンスもすごいんだぜ!

最後の約1分30秒くらいが

藤井さんのダンス部分なのだが、

あーもうサイコー語彙力が消える

ほんとうにおすすめです。

 

藤井隆さんといえば、

おげんさんといっしょ」で

おげんさんの娘、隆子を演じている。

それを見ていて私は出会ってしまった。

dead or aliveに。

隆子さんが歌ってたの。

私はすごく感銘を受けたので

この感動を伝えたい!


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※この動画は静止画です

 

 

 

ゴキゲンなプレイリスト

今週のお題「わたしのプレイリスト」

まずはcyndi lauper さん!

10才のときにあの

ゴキゲン」なサウンド

サイコーにクール」なファッションに

イカれて」しまった…

ほら、言葉まで彼女に影響されてる。

特に「true colors」が大好き❤


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beautiful , powerful and the greatest !

 

そして藤井隆さん!

私は「ナンダカンダ」も好きだけど

わたしの青い空」がもうサイコー


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青く澄みわたる空が子供じみてると

              笑うのかい?

っていうね。

何この美しくて素晴らしい言葉。

今度書こう。

 

最後にキリンジさん!

あの世界観に住みたい。

エイリアンズ

ロマンティック街道

んー、体の内から沸き立つ唯一の感情。

蒸散しそう。

 

あと時々聞くのが

くるりさん「ばらの花

koji1200さん「なうロマンティック

REO speedwagonさん

       「Can’t fight this feeling

はっぴぃえんどさん「風を集めて

HEARTさん「alone

んで、

危うく中学校の頃クラスのテーマ曲と化した

we are the world

 

考えるだけで幸せ。

音楽ってすごい。

 

 

 

 

 

人それぞれ。

果たしてそれは「思いやりのある」言葉なのか。

本当に相手に寄り添った言葉なのか。

可哀想、とは本当にあたたかい言葉なのか。

 

私は「可哀想」という言葉が嫌いだ。

「連帯責任」に勝るとも劣らないくらい嫌いだ。

だから私は絶対に、絶対に、

この「可哀想」という言葉を使わない。

そして「可哀想」と言われたくも、ない。

しかし、父がよくこの言葉を使うのだ。

そしてよく言い争うことになるのである…

 

父曰く、「可哀想には同情が、相手に寄り添う気持ちがこもっている。」と。

まあ、確かにそうだね。

同情は含まれているね。

でも。

私は思う。

「可哀想」はむしろ、人を否定する言葉だと。

 

「可哀想」と言われると、

なんだか「私」というものを踏みにじられているような気がする。

「あぁ、可哀想に…」

という言葉の後に

「自分があんな目に遭わなくてよかったあー」

という声が聞こえる。というより、見える。

まあ、そんなこと思ってないかもしれない。

純粋に同情してくれてるのかもしれない。

でも少し、

見下されたようなニュアンスが染みていると

私は思うのだ。

 

こんなこともあった。

父と車に乗っていた時のことだ。

ランドセルを背負ったちっちゃい子たちがいた。

班長さんについて行こうと

ぴょこぴょこぱたぱた歩いている姿が可愛い。

すると父がいうのだ。

「あんな重いもの背負って…かわいそうに…」

もちろん悪気があっての言葉ではない。

それはわかる。

しかし、ねぇ。

可哀想じゃなくて、偉いねでよくないかな?

と、私がキレたのは言うまでもない。

 

「可哀想」のひとことで、

あの子たちの頑張りを無下にしているような、

そんな気がするのだ。

他にも適当な言葉があるはずなのに。

そんな陳腐な言葉で済ませていいはずないのに。

 

「可哀想」

これは相手に対する同情を示す言葉だ。

でも。

必ずそう捉えられるかはわからない。

感じ方は人それぞれだ。

だから、相手の感性を受け止めて、

認めて、自分のに取り入れるくらいの

心の広さがないとダメなんだろうなあと思う。

今回は「可哀想」に対して思うところを書いたが、ほかの言葉だってそうだ。

人は他人の考えを読むことができない。

だから、思い違いが生じる。

つまり、相手の気持ちになって言葉を選ぶことが大事なんだね…とちょっと良い感じにまとめてみて今日はおしまい。

 

駄文にお付き合いいただき、

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

JKの戯言

ひしめき合う人々。

肩に他人の肩が触れる。

 

私は広島市内の高校に通っている。

とんでもない田舎から1時間以上かけて、

通学をしている。

怖くて仕方がない。

連日増えていくコロナ陽性者。

ゴールデンウィーク中ではあったが、

我が校にも陽性者が出たと言う。

 

通学には電車と市電を使う。

行きも帰りもだいたいギュー詰めだ。

学校に着いても、

1000人の生徒がひしめいている。

つまるところ、なのだ。

どこに行ったって密。

みすみす、感染しに行っているようなものだ。

ものすごく、怖い。

オンライン授業を心から望んでいる。

でも学校は当面そんなことする気はないらしい。

命がかかってるんだけどなぁ。

と、思いながら今日も私は電車に乗る。

そりゃ広島ですから、大都市よりか人口密度は低いだろう。

でもね、密なもんは密なんだよ。

今の時代、

密は必ずしも安心できるものじゃないのだ。

 

先日TVを見ていて面白いことを聞いた。

「小学校・中学校で人との向き合い方なんかを学ぶから、高校・大学はオンラインで事足りるのではないだろうか」

なるほど、と思った。

かなり共感した。

学ぶのに、先生と会わなければならないと言う法はない。

学べさえすればいいのだ。

今の時代に適応している学習法だ。

しかし、その人はこうも言った。

「デジタル化することによって、学習格差がさらに広がる」と。

学習格差とは、その環境によって子どもの受けられる教育に差が生まれることだ。

授業がオンライン化したら、もっと電波環境を改善しないといけなくなる。

全ての人がなんらかのデジタル機器を持たないといけなくなる。

 

さて、いよいよ私が言いたいことがわからなくなってきた。

コロナが怖い?–そう。

オンライン授業になってほしい?–そりゃね。

世界には改善すべき点があるけれど、

どうすべきかわからない?–…そう。

今、思いついたのが、

「コロナという災いが起こって、いろいろな問題ができたというのではなくて、コロナという災いによってそれらの問題が見えるように、はっきりと感じられるようになったのではないだろうか」

ということ。

 

…もう、自分が何を言いたいのかわからなくなってしまったので、上の文をまとめとする。

 

駄文にお付き合いいただき、

ありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

 

「変身」とかいうとんでもない悪夢

変身-と聞いたらあなたは何をイメージするだろうか。

ただの憶測だけど、なんか「一般市民がヒーローに」 みたいなことを想像するんじゃないかな。 
もしくはポリジュース薬とか。 
でも、この変身はちょっと違う。  
 
「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で1匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。」    
  ー「変身」 フランツ・カフカ 新潮文庫ー 
 
 あまりにも有名なこの出だし。 
あまりにも最悪なこの目覚め。 
一体誰がこんなこと想像できるの…? 
羨ましがるのもおこがましい感性。 
とにかく、朝起きたらザムザ君は 
人間サイズの百足になってたんだと。 
殺虫剤の出番ですな。 
でも彼はそんなこと思わない。 
だって、
この虫の体だといつもの体勢で眠れないから。 
そっちの方が変身したことより
よっぽど大事だから。  
 
これが夢だったらよかったよ。 
ああ、そうだったらよかったさ。 
でも、彼の家族の真っ当な反応を見ていると、 (めちゃめちゃ気味悪がる父とショックを受ける母) いやでも現実に引きずり戻される。
 夢の中の話にもできないところこそ悪夢。  
 
どうやらザムザ君はサラリーマンで、作者・カフカさんもサラリーマンだったらしい。 
もしかすると彼は、いや彼らは、自分の人生を変えたかったのかもしれない。 
いつまでも変わり映えしないつまらない日々。
 鬱積し続ける人生に対する不満、欲望。 
それらの思いが、虫への「変身」としてあらわれたんじゃないのかなぁ。 
私だったら虫にはなりたくないけど。絶対。 
 
 読んでいるとぬるりとした気持ち悪さを楽しめる傑作。 読後には、新たな世界観を開けるはず。 虫が嫌いな人は…
マンガ版はやめたほうがいい…よ…  
 
単純に興味を持ってる人から、「明日、なんか朝起きたら虫になってそうな気がする…」と思ってる人まで、文字通り全ての人におすすめです。